>>51
「主観的客観というのは「客観」の部分がない言葉上の観念にすぎない主観」のところだけど私の主張は「「客観」の部分がない」は「「客観」の部分が不明な言葉上の観念にすぎない主観」だよだから「概ねそうであろう」が大切なんだよ
AとBのお互いが思う「友情」というものは「客観として同じものか」ってなるとまた色々あって面倒だからリンゴの話で語るよ
みんなに「これは何でしょう?」と聞いて回答がそれぞれ「果実」「リンゴ」「ふじ」とか「甘くておいしい」「触った感じは割りと摩擦あるね」「聞こえないんだけどどれ?」だった時に「客観は一つ」ならそれは一体何を示しているのかな?「客観は一つ」なら「これは何でしょう?」のその何を「聞くこと」ができなかった彼にリンゴという「客観はある」のかな?「聞こえないけどみんなが話をしてるからあるんだろう」っていうのが私の言う「概ねそうであろう」だよ
だから「客観は「一つ」だから客観なのであって」とあなたは言うけどそれってどうやって「一つ」だと言うことができるの?私の主張は「私と彼が互いに「一つかどうかは不明だけど私の主観で見たり触ったり食べたり聴いたりして五感の刺激を受けた私が示す「何かあるもの」を相手に伝える行為が「概ねそうであろう」」としてお互いに伝わっていると思う私の主観を「客観」と言う」だよ

だから「ある」は主観で「あった」は客観だよ

私の中ではそれは「客観」なんだけど「客観的」の方が伝わりやすいなら今度から「客観的」って言ったほうがいいのかな?「客観的」の「的」って何さって思うからなんだけどハイデッガーの書き方(訳書)みたいにはなりたくないんだよね相手に伝えようとするのを放棄したくないし