>>665 
なんだかやっと分かった気がします。665さんは「論理」を問題にしていたんですね。
なお、私は例によって、それも基本は虚構だと考えています。たとえば私は「気がする」とか「思う」とかを多様しますが、それは基本的には「論理」を信じないからです。
たとえば普通「A≠ 非A」は正しいことになっています。しかしこれが正しい根拠は、どこまで行っても「そういう気がする」ということでしかない気がするのです。「A≠ 非A」を正しいとする根拠「B」、「B」の根拠「C」、以下無限後退するでしょうけど、しかし最終的な根拠には到達しないであろう以前に、少なくとも「B」も「C」も「D」も「E」も以下すべて絶対的真ではないだろう、
あるいはn項の公理系は自己完結しない、それを担保する前提が必要になる、ようするに「A≠ 非A」は前提が変われば成り立たなくなることもあるのであり、つまり前提の内容によっては「A= 非A」も成立する、と私は考えます。
その実例ですが、たとえば「A= 非A」の有名なものに「色即是空」があります。これはリクツではありません。私たちにとって「A≠ 非A」が自明であるようにして、「A= 非A」は仏陀にとって説明の必要がないほどの基本的な真実なのです。つまりそれは前提が違うということです。
論理学的な「論理」というのは絶対的な普遍性のない前提に基づき成立しているのですから、その「論理」に基づけば、その「論理」自体にも絶対的な普遍性はないということになります。それは相対的なものでしかないということです。
ちなみにこのことは、私たちには究極的な真理に到達できない、というところにつながります。哲学はゲームにすぎないという言い方もできると思います。

ただ、意識のハードプロブレムが世界の仕組みを問題にしているのだとすれば、何故私は真理に到達できないのか、何故この世界はそういうものとしてあるのか、こういった問いにも答えなければならないと考えます。もちろん答えは分かった気になるだけのものです。
意識のハードプロブレムの答えは、論理学的な論理を越えたところにあるのだろうと直観します。「論理」というものを成立させるレベルをも視野に入れる必要があるように思うのです。もちろん根拠はありません。


あるいは665さんがお考えになる「論理」というものがどのようなものなのかをうかがいたい気持ちがあります。私とは違う考え方もあるだろうと思うのです。
たとえば665さんは他者に意識は有るとお考えになりますか無いとお考えになりますか?そしてそのようにお考えになる論理的根拠(論拠でも理由でも何でもいいですけど)を示していただければと存じます。ツレヅレなるままでかまいません、模範回答お願いしたいです。