私には「売れる」ものは書けない。読む人が読めば、読んで面白いものは書いている自信があり、
今回の本も知的エンターテインメント度は高いはずだと思う。しかし本が売れるのは、必ずしも
それが面白いからではない。

たとえば浅田彰や坂本龍一はハイドンの音楽の面白さがわからないが、ハイドンを理解しないことは
むしろクラシック愛好者のマジョリティの機嫌を取るためには必須の身振りであり、彼らの無理解は
むしろ彼らの商売人としてのプロフェッショナル性を示すのかもしれない。

しかし同時に私にとってハイドンが面白いという経験は揺るがないし、変える必要がない。
高校の頃愛読していた司馬遼太郎の『花神』に、大村益次郎の言葉として
「ゼロは一万個あつめてもゼロである」という言葉が紹介されていたが(出典は不明)、
読者というものは、何万部売れたとしても、本質的にはゼロである
(ゼロは零であることにおいて霊であり、亡霊的には存在すると考えられるかもしれないが、
それはまた別の話である)。これは他者を否認するとか否定するといった話
(そのような解釈になってしまうのが、柄谷以後の思想の通弊だが)ではまったくない。


 これはただの「酸っぱい葡萄」式の屁理屈かもしれない。だが、現在はあまりにも
「売れること」自体がフェティシズム化している。私は日本の「失われた○○年」と
「売れること」の神聖化との間には相関関係があると思っている。

少なくとも「売れること」は「命がけの飛躍」ではない。
それは常にあらかじめ未来を保証した共同体的な安心によって補助されることによって売れる。
本当に金儲けをする企業が、常に政府や政治家の援助を受けた政商であるように。