例えば、ある無限級数が「収束する」ことが数学的に証明済みであるなら、にもかかわらず、それについて哲学的にことばで議論をつづけることは、それが逆に、「収束しない」ことを、無理な理屈をつけて証明しようとしている無駄な行為に見え、そのような議論は、まったく相手にする価値がないように感じられるだろう。
しかし、ここには、大きな根本的な行き違ひがある。なぜなら、数学的に「収束する」ことが証明されている事象について、それが「収束しない」とどのようにか強弁して、わざと議論を煽情的に紛糾させようとする似非哲学者の場合を例外として、哲学的に考へようとする者が問題としているのは、「収束するか否か」ではなく、「『収束する』とは、どのようなことか」だからである。
そして、その場合に最も大きな問題となるのが、「収束する」ことが、収束により近づいてゆく値が「収束点」として、あたかも「あらかじめ『存在する』」ことを証明することと同義と見做すような、数学者の「ことばによる説明」であり、その「ことばによる説明」が、数学的な技法によっては示され得ない「形而上学的な存在論」を前提としていることである。