続き
論拠と射程の食い違い
ベネター的な反出生主義であれば「苦痛の非対称性」など、生そのものに内在する構造的な問題を理由に、つまり社会問題の有無にかかわらず、生には避けられない苦痛が伴うため産むべきではないとする立場で、
この論拠に基づいていれば、「社会問題が解決したとしても、生は依然として苦痛を伴う可能性があるため、産むべきではない」という一貫した主張になるはず。
であれば、そもそも社会問題を論拠に据える必要性は無いのだが、何故社会問題を論拠にするのか?主義者の抱える問題意識をご都合解釈で持ち出す、つまり混同。

混同の内容=飛躍への無自覚
例えば予防医療は、既存の存在の病気の回避・未然防止する措置でしょ?
社会問題論拠なら、予防倫理にならって社会問題の発生を回避し既存存在に被る問題を未然に防ぐ方向に繋がるはず(連続性がある)、だが反出生主義者は何故か産むべきでないという非存在志向の方向になる。
この連続性の欠く断絶つまり飛躍、にある非整合性について指摘し、社会問題を論拠にしたところで社会問題にも非存在にも(理論的には)寄与しない構造で、予防倫理と同じではない、と言いたいんだが…オッケー?(今まで色んな人が何度もやり取りしてたと思うけど)。

・予防医療の連続性: 既存の健康な状態 → 病気の予防 → 既存の健康な状態の維持
・反出生主義の非連続性: 既存の苦痛(存在) → 苦痛の回避(論拠) → 新規出生の停止(非存在)
社会問題を論拠とするならば、その問題解決に努めるべきであり、それが「なぜ出産を止めるべきか」という結論に直結するのは、論理的に飛躍する。

もう一度いうけど、実存では病気があるので、産まないのがいいですよ!って助言は予防医療ではないよね。
だから問題は、社会問題を論拠にする実践者(主義者)における射程との矛盾がないかどうかではなく(81の問いに対する>>86の回答、そのズレの意味するところ→)実存の主義者により生ずるこの非整合な実践が理論の意義や整合性を喪失する事態を招く→理論と実践のパラドクス(ジレンマ)に繋がる、ということ。
だから反出生主義者が社会問題をいくら気にしようが反出生主義の理論的枠組みでは評価されない、となる