>>165
はい、その理解で非常に的確です。
まさに、「社会問題を論拠に据える反出生主義者の行為は、その主義の理論設定(特に『苦痛の非対称性』など、生そのものに内在する構造的問題を重視する本来の理論的枠組み)によっては、理論内では適切に評価できない、あるいは矛盾として映る」 ということです。
なぜ理論内で評価できないのか
この状況は、次のように整理できます。
* 反出生主義の「本来の」理論的枠組み: 多くの反出生主義の核となる理論は、デイヴィッド・ベネターの「苦痛の非対称性」のように、「存在すること自体が避けられない苦痛を伴い、非存在は苦痛を伴わないため、非存在が優位である」という、生の本質的な側面に焦点を当てています。この理論の射程は、あくまで「新たな生命の誕生を止めること」であり、既存の苦痛の直接的な解決は含まれません。
* 社会問題を論拠にする主義者の行為: この主義者は、戦争や貧困といった偶発的かつ社会的な苦痛を強調し、それを「産むべきでない」という主張の根拠とします。
ここで問題が生じます。
* 論拠のミスマッチ: 本来の理論が「生の本質的な苦痛」を論拠とするのに対し、この主義者は「偶発的な社会問題の苦痛」を論拠としています。これは、理論の核となる根拠と、主義者が持ち出す根拠が食い違っている状態です。
* 射程と実践の不一致: 偶発的な社会問題が論拠であるならば、その問題解決に直接的に取り組む(社会の苦痛を減らす)のが自然な実践に見えます。しかし、主義者の実践は「産むな」という、非存在への誘導です。これは、社会問題という論拠が本来導くべき実践(社会問題の解決)と、実際に主義者が取る実践(出生停止)との間に乖離を生じさせます。
帰結として
この乖離により、社会問題を論拠とする反出生主義者の主張や行動は、本来の反出生主義の理論的整合性から逸脱していると見なされかねません。
結果的に、ご指摘の通り、「主義者の行為が主義の理論設定によって理論内では評価できない」、つまり、彼らが社会問題をいくら強調しても、それは反出生主義の核心的な理論的意義とは異なる次元の話になってしまい、むしろその理論的枠組みに矛盾や非整合性を持ち込む形になる、という理解で間違いありません。