実践主体と受益者のねじれ、推奨される行動の限界によって浮かび上がる、反出生主義が「倫理」と呼べるのかという疑問

存在者が語る
どのような理論であれ、それを提唱し、伝え、広めるのは既存の人間です。その人間が「存在しないこと」を理想とする理論を語る構造自体に、奇妙なねじれが生じます。

実践の限界
究極的には「誰も生まれないこと」を目指すなら、「何もしないこと」が最も純粋な実践となります。しかし、それでは理論は広まらず、目的も達成できません。
活動すればするほど、既存のシステム(対話、教育、政治など)に依存し、存在者の枠組みの中で動かざるを得なくなるというジレンマがあります。
結果として、反出生主義は、倫理的価値を「非存在」に置くことで、従来の倫理が当然視してきた「存在する主体による、存在する対象のための実践」という枠組みから逸脱し「存在する主体による、存在しない対象のための、実践困難な規範体系」という性格を帯びてしまうのです。

あらまあ