>>243
>べネターが言う「剥奪 (deprivation)」はー生きていれば経験できたであろう快楽や喜びの機会が、死によって永久に失われる、という意味での「剥奪」です。
>ベネターの「快の剥奪」は、個々の瞬間的な快楽が消えることではなく、快楽を経験するその全ての可能性が永久に失われることを指します。

快楽や喜びの可能性が「何から」失われるのかが問題です。死ねば「主体」自体が存在しないんですから、主体からは失われようがありません。
「未来の主体の存在の可能性、未来の主体が経験する快楽や喜びの可能性が、客観的に『世界』から失われる」、という意味なら、まあその通りです。他人が死んだときの実感は、まさにこれです。
しかしこれは「生まれない」でも、全く同じことです。
生まれる可能性のある子どもが「生まれない」ことは、未来の主体の存在の可能性、その主体が快楽を経験する全ての可能性が永久に世界から失われることに他ならないので、まさしく「(世界からの)快の剥奪」です。どうしてこちらは「悪くない」ことになるのか、どうもさっぱりわかりかねます。

生きている人が死ぬと、普通は「惜しい人を亡くした」とか「夢がたくさんあったのにかわいそうに」と言って悲しんだり、逆に「やっとくたばりやがった」と言って喜んだりしますが、生まれる可能性のあった子供が生まれなくても、普通はそこまで悲しんだり喜んだりはしません。これは単純に、生きている人が死んだ(生まれなかった)場合は、未来のどんな可能性が世界から剥奪されたのか、その具体的内容がわかりやすい(イメージしやすい)のに対し、生まれる可能性のある子どもが生まれなかった場合は、どんな可能性が世界から剥奪されたのか、具体的にイメージのしようがないからです。別に、両者に本質的な違いがあるわけではありません。
「ターミネーター」という映画にあったように、生まれる可能性のある子どもが生まれなかったために、未来の世界が激変する、なんてことは、普通にあり得る(現にあったかもしれないが、どう変わったかはわかりようがない)ことです。