例えば仕事でミスして責任を問われて怒られて減俸になったとき「決定されていたので責任はないからやめて下さい」と抗弁しても、聞かれるはずがありませんw
犯罪自体が、特に怨恨によるものは、ある種「他人の責任を問う」行為です。ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスは、互いに過去の相手の行為の責任を問うて制裁や報復を続けています。
「決定論が正しいなら、人を恨んだり憎んだりできなくなる。犯罪も戦争もなくなる」という議論が到底成り立ちそうもないことは(成り立ったらどんなに結構かと思いますが)、考えるまでもないでしょう。

一応付言すると、反出生主義を巡る議論のあれこれも、人の生死も、苦痛や快楽も、すべて宇宙の事象の一部に過ぎないので、決定論の是非とは関係ありません。

事象の一部としての「善悪」は、人間の心的内容の一様態、人間が生活上使用する概念、人間が社会的政治的に行う取り決め、制度、等々で、それが苦痛や快楽と密接な関係があることは、明白です。

ですから快苦の問題は現実に重要なのですが、しかし苦痛も快楽もあくまで宇宙の事象の一部、極小部分である生物の、一種に過ぎない人間の、心的内容の上澄み、みたいなものに過ぎないので、神様の心の中の『善悪』とは、何の関係もありません。それをまるで快苦こそが『善悪』の基準、宇宙の根本原理だ、みたいな議論を始めるのが、反出生主義のおかしな(あえて言うと滑稽な)ところでしょう。