前スレの続きみたいなこと

釈尊以降、経典を「自分が聞いて、本当だと思ったところ」を伝えることになった瞬間、根本分裂が起こりあっという間に数百に分裂した
釈尊は「語るところは全て語った」と言っており、「自分が聞いたところ」を読み合わせで弟子たちが共同作業で訂正していく方式なら、誰かが言葉を追加してもチェックして跳ねられるはず。釈迦滅後にわらわら増えたとされる多くの釈迦前生譚も、マンジュシュリーを菩薩と評したりするのも、各教団に釈尊の言葉を主導的に「私はこう聞かせてもらった、私にはこう聞こえた」と発言する立場の者が表れていたことを示唆している。
経典が新展開することで各派で他の経典が通じなくなっていく、まるで祝福のバベルの塔でございます
「修行完成者」は主語を失い、語ったところは新しい経典となる。既存の経典に肉付けをしていく。大量のジャータカを生み出したり涅槃経なんか雪ダルマ方式にダルマが増えてく、維摩伝説があまりに面白くて示唆的なんで経典になっちゃう、法華経に無量寿経に、大乗経典等ができていくのもこの部派仏教の各研究の流れの中にある