トカゲの発情 ― 思考以前の存在肯定

デカルトは、方法的懐疑の果てに「我思う、故に我あり(Cogito, ergo sum)」という、近代哲学の揺るぎない基盤を打ち立てた。すべての感覚が欺かれる可能性がある中で、ただ一つ疑い得ないものとして、彼が見出したのは「思考する私」であった。思考することそのものが、私の存在を保証する。ゆえに「我」は、まず第一に思考する主体として成立する。
しかし、岩の上で日光を浴びながら発情するトカゲの前で、この命題は奇妙な輝きを放ち始める。
トカゲは、思わない。
それどころか、おそらく「我」などという自己同一性すら持っていない。彼らに「私」という意識はない。欲望の対象であるメスを「他者」として認識しているわけでもない。ただ、体内で湧き上がる化学信号と、太陽の熱が引き起こす微かな体温上昇に、純粋に反応しているだけである。

ここに、決定的な逆転が生じる。

デカルトにとって存在の確実性は「思考」に依拠したが、トカゲの発情は「思考以前の存在」を、ほとんど暴力的なほどに鮮やかに示している。トカゲは思わないのに、確かに「在る」。しかも、その「在り方」は極めて強烈だ。発情の瞬間に、トカゲの身体はただの物質ではなく、生命そのものの主張となる。尾が震え、喉が膨らみ、色が鮮やかになる。その全てが「私はここに在る」という、言葉以前の、思考以前の、自己意識以前の、純粋な存在の叫びである。