​荒らしは「現実の出生は苦痛もセットだから『生むべし』とはならない」と言い張りますが、これはベネターの「思考実験の意図」を全く理解していません。

苦痛を100%排除した「純粋な快楽の不在」という極端なケースを想定しなければ、マトリクスの「快楽の不在」という記号そのものの性質を取り出せないからです。

彼は、倫理学の基本的な思考実験の手続きすら理解できないから、これを「現実の出生は~」と泥臭い現実論ですり替えて逃げているのです。


​2.「436・327」の「ダブスタ・循環性」という批判の欺瞞

​彼らは、ベネターが「直観」をベースに理論を組み立てていることを捉えて「ダブスタだ」「循環論法だ」「マイルールだ」と騒いでいます。

​しかし、すべての規範倫理学(カントの義務論であれ、ベンサムの功利主義であれ)は、最終的には「私たちが現に持っている道徳的直観」を出発点にするしかありません。

「人を理由なく殺してはならない」という倫理に、それ以上の純粋客観的な物理学的証明など存在しません。

私たちは「人を理由なく殺すのは悪いことだ」という強烈な直観(間主観性)を持っており、それを最も矛盾なく説明できるシステム(ルール)を後から構築しているのです。

​ベネターがやっているのも、まさにそれです。

「私たちは重い遺伝病の子供は生まない義務があると感じるが、健康で幸せになる子供を無理に生む义务まではないと感じる。

この現にある非対称な直観を説明するには、このマトリクスが必要だ」と言っているのです。

​これを「マイルールによる循環論法だ」と批判するのは、倫理学という学問そのものの構造に対する無知の露呈です。

そんなことを言ったら、あらゆる道徳哲学はどれも「人間が勝手に決めたマイルール」になってしまいます。

自明の事実を、ただそうだと言う指摘にしかなっていません。