>>643
ChatGPT

そして、この併合に対するボーア人の抵抗が1880~81年の第一次ボーア戦争になります。1880年12月、ボーア側は共和国の再建を宣言し、イギリス軍と戦いました。結果はボーア側の勝利で、マジュバ・ヒルの戦いでイギリス軍が大敗します。

その結果、1881年のプレトリア協定によって、イギリスはトランスバールに自治政府を回復させました。ただし当初はイギリス国王の「宗主権(suzerainty)」を認める形でした。条約には、イギリスが外交関係などについて一定の権限を持つことが明記されています。

さらに1884年のロンドン条約で、このイギリス側の支配権は大幅に縮小され、トランスバール共和国は実質的な独立を回復しました。

ところが1890年代になると状況が変わります。

1886年に金鉱が発見されると、ヨハネスブルグ周辺に大量の外国人鉱山労働者・投資家(Uitlanders)が流入します。トランスバール政府は彼らに完全な政治的権利を与えず、これがイギリスとの重大な対立要因になりました。

さらに1895年には、イギリス系の南アフリカ会社と結びついたジェームソンによる侵入事件、いわゆるジェームソン・レイドが発生します。これはトランスバール政府を転覆させることを狙った武装侵入で、失敗しました。むしろボーア側の警戒心を強める結果になります。

そして最終的に1899年、第二次ボーア戦争が始まります。

ここで第一次併合とは性格が違います。1899~1902年の戦争でイギリスはトランスバール共和国を軍事的に制圧し、1900年にプレトリアを占領した後、トランスバールをイギリス領として併合する方針を明確化しました。1902年のフェリーニヒング条約によってボーア側が降伏し、トランスバール共和国は国家として消滅しました。

したがって、経緯を一本の線にすると、

1852年 イギリスがトランスバールの独立を承認
→ 1877年 イギリスが一方的に併合
→ 1880~81年 第一次ボーア戦争
→ 1881年 自治回復
→ 1884年 ほぼ完全な独立回復
→ 1886年 金鉱発見
→ 1895年 ジェームソン・レイド
→ 1899~1902年 第二次ボーア戦争
→ 1900年以降 イギリスによる再併合・軍事占領
→ 1902年 フェリーニヒング条約で共和国消滅
という流れです。