>>452
私がとりあえず思いつくのは時計さんにとっての「自由意思」です。
これこそトンチンカンかもしれませんけど
アナロジー的なものとしてあり得るような気もします。

たとえば時計さんの前に手品師が現れてカードを一枚選ばせたとしましょう。
時計さんは何らかの考えに基づきそのなかから一枚選ぶとしても
そのカードはじつはえてして手品師があらかじめ選んでおいたカードです。
私は世の中のことはたいていこういうようなことだと考えます。
買い物をするにしても食事をするにしても旅行に行くにしても
大抵のことは選んでいるのではなく選ばされています。
選ばせているのはたいていは「見えざる手」ですけど
場合によっては特定の資本家による誘導さえあるでしょう。
私は自由意思は無いと考えます。
しかし時計さんはそれらをすべて飲み込んだ上でなお「自由意思はある」
と主張してくる気がします。
時計さんにとって「自由意思」は超越とか絶対とか
そういうもののような気がするのです。

そしてそれは(たぶんここがポイントです)思うに必ずしも「信仰」とは限らず
論理的な「解釈」として成立し得るような気がするのです。
これは主観を世界の中心に据えれば確かに必然になるような気さえします。