>>515-
とりあえず白状すると目下の私には光(流れ的に「光」としておきましょう)
が見えていません。
探究の必然性は限りなくある気がしませんし
そもそも表現に制限がつくことにもことさらな不満がありません。
強いて光があるとするならば美魔女さんが何かを持っている可能性です。
つまりゴマをすり倒すわけですけど
ただしこれも可能性に過ぎないものであって実際にどうかは未だわかりません。

むしろ私としては美魔女さんの言葉に何故悲壮感がまとわり付くのか
それが不可解です。
キルケゴールにしてもそうですけど
所詮人間なんてものはメシ食ってクソ垂れて寝るだけのものです。
それでもまっとうに生きていればメシは美味いしクソは気持ちいいし
寝るのも悪くはありません。「死」すら希望であり得るものです。
哲学はゲームです。
適当に楽しんでおけばそれでよろしいというただそれだけのものです。
「座標軸がなくては(中略)意識状態という表現が意味を失ってしまう」
もともと生きることの意味は自分で見つけるのが実存主義だったはずです
(そしてそれは可能だと私は楽観しています)。

もはや知性として存在するがゆえの限界は
私にとっては存在のナゾを解く重要な手がかりのようにさえ思えます。
ほとんど唯一の希望です。
脳天気というのはそういうものです。